西郷南洲翁南島謫居時の逸話研究
神奈川在住 森田博文
私の父は龍郷出身であり、私も幼児から中学時代までは名瀬で過ごしていたが、学校の
休暇の度に、祖父母の住む龍郷を訪れて、龍郷で過ごしてきた。それ故、私の龍郷での記
憶はその頃のものであった。その後、高校を鹿児島、大学を東京で過ごし、外資のIBMで
のサラリーマン人生を終えて、度々、父母の住む龍郷に帰省するうちに自分の家系は愛加
那の妹に繋がる事を知り、土地に伝わる南洲逸話がどのようにして現在まで伝承されてき
たか興味を持って調査研究してきた。
西郷南洲翁が龍郷に潜居したのが、安政6年である。鹿児島城山にて西南戦争で没し
たのが明治10年、明治22年の明治憲法発布による特赦により、反逆者の汚名がそそが
れ、南洲翁のよすがを偲ぶのがおおぴらに許された。それ以来、没後10年毎に、30年
祭・・・が催されてきた。大きなところでは50年祭、100年祭、150年祭であり、
記念出版もなされてきた。
龍郷集落を明治42年の昔と、長雲の一番高いドラゴン塔の上から眺めてみて、変わら
ない所、変わった所を比べてみた。
明治42年に鹿児島出身の東郷中介が当時の大島島司 富田嘉則の援助で「南洲翁謫所
逸話」を著して、龍郷、徳ノ島、沖永良部島謫居時の逸話を拾って出版した。そこに、明
治42年当時の龍郷集落の写真と、謫居跡記念石碑が二葉の写真が撮られている。
恐らく、龍郷集落の写真は位置的には、現在の集落の入口の墓地の上の山か、長雲への
登り口から撮られたもので、そこには当時の龍郷集落が写っていて、賑わいが家の数の規
模に表されている。道路はその後、白砂浜を埋め立てて拡張されたり、舗装されたり、峠
にトンネルが掘られたりして時代時代で大分変わってきている。安木屋場へ続く岬の崎の
地形の形状は変わらず、その山々の景色は今でも昔のままである。又、集落を見下ろす長
雲の山の頂のドラゴン塔から眺めると、戸口まで見渡せる山々の尾根は昔と変わらぬ、道
路の未発達の頃の尾根道を示唆してくれる。山々の常緑広葉樹の木々、龍郷湾の奥深く入
り込んだ広がり、変わらぬ景色である。一方、眼下の龍郷集落の形はすっかり変わってし
まっている。明治42年当時の集落写真にも写っていて、私が幼い頃の記憶にも残っていた
集落の下に広がる豊かな田袋はすかり無くなってしまっている。
道路の進歩は当時の他の安木屋場、円、嘉渡、秋名との集落間の往き交いの困難の度合
いを教える尺度である。その進歩故、海岸沿いの海路に取って代わっている。
西郷の大島での逸話は西郷自身が語ったもの、西郷と接触した人々が語ったものとがあ
り、西郷と接触した人々は沖永良部島、徳ノ島、大島に居て、西郷自身が語ったものは沖
永良部島の当時の島役人で西郷と「義兄弟の契」を結んだ土持政照が伝えた逸話が残って
いる。これを文書として纏めた人は明治31年、沖永良部島で大風害が発生し、その調査
に県から派遣されて来ていた警察官 鮫島宗幸であり、土持政照から口述筆記した「謫居
之南洲」がある。文字として残されたものにこの「謫居之南洲」が最初である。鮫島宗幸
は明治42年当時は名瀬で警察署長に昇進していた。現在、集落に伝わる西郷南洲逸話は
、どうも、上記東郷中介の「南洲翁謫所逸話」が元ネタで、代々の龍郷小学校校長がそれ
を伝え、そして、西郷と同時代の土地の人々の家族に因って伝承されてきたものの二種類
のようである。
島の若者達に伝えたい事は、若いうちに一度は広い世界に出て見聞しろ。その中で、変
わるもの、変わらぬものを見極め、其の価値を判断しろと伝えたい。逸話伝承の理解には
、変わらぬもの、変わってきたものを歴史の流れと共に、理解する事が重要である。